心の私
肉体の私
魂の私
それぞれ様々な言い方はありますが、今日はこの表現で書いてみようかと思います。
魂の時と肉体の時と心の時が同時に同じ方向をみている時期は記憶にない年代でしょうか
幼い頃は全てに一生懸命で自分と言うものを見ていませんし定義もしていません。
エゴ・自我も有りません。
どんな風に周りから見られているのかも考えずただ生きる事が楽しかったとき
それから自我が芽生え始めると思考からの記憶の蓄積が出始めていることの表れです。
私は「私はこうである」という思いで生きていたように感じます。
肉体のDNAと思考の記憶の混ざったものですね
幼少から高校辺りまででしょうか?(私の場合です。)
心の自分はなくなり思考で創りあげた自分へと変わっていきました。マインドコントロールされた自分ですね。
肉体の私は美意識を表していました。
この美意識から思考がどう絡み合い作用するかで様々に形成していくのですが
私の場合、肉体と思考は極端なのでどちらが私???と悩んだ事もあります。
結果としては、探すのではなく創る事なので悩む必要もないものですね。
そして魂の自分を見つけたとき、クリアーになっていない思考の部分が邪魔をしてなかなか魂の自分になれないのです。
どこかに価値観を置いていて手放せないんです。
人間世界の価値観を置いている以上そこへは踏み込めません。
そして、その価値観があるから不安と恐怖を手放せないわけです。
人間世界の価値観での自分から抜ける事は出来ません。
魂の自分とは人間世界の価値観とは無縁の世界なんです。
魂の自分になると言う事は、肉体と過去(思考)のカルマの解消を表しています。
そこから抜ける事により人間世界の価値観が外れ、クリアーな魂が出てきます。
とても面白いワークなのですが、卒業生対象クラスかと考えています。
基礎がないと思考の自分にしがみついて、感情を優先にしてしまうからです。
真実を目に見えているものにしているのが、感情を大切にして手放せない人
真実を自分の望むものにしているのが、魂で生きる人
目に見える現実を真実としていないから、感情が手放せます。
目に見えている世界で喜怒哀楽を楽しむ事は、創造の世界を見せてはくれません。
人間的感情を喜んでいる人は感情に飲まれて大切なものを選べません。
本当にすぱっと2極に別れてしまっています。
そして、不思議な事に守られている人は肉体の自分が強い人が多いようです。
心・思考の自分が強い人ほど逆に生きますね
なんせ思考は損得勘定で真実を見ていないのです。
勘定・・・感情 面白いカラクリですね。
年齢を重ねるにつれ、肉体の方の自分というものも長年の不摂生から動かなくなります。
そうなってくると自分の美意識というものを動かしにくくなります。
よく「歳だからもう気にしない」なんていうのを聞きますし、私も子育ての最中は体が重いのも有り美意識の部分を捨ててしまいました。(私の人生においてはです。美意識も着飾る事ではありません。)
肉体が滞っているせいで同じように美意識というものが滞るのですね。
30代にもなるともう魂も肉体の私も出てこず思考だけの自分でいたのです。(私の場合です)
昔の人は家事も育児もちゃんとしていたのは時代背景もありますが、肉体が滞っていないんですよね。
食も違えば幼少の頃からの姿勢など立ち居振る舞いも違います。
動く体の生き方をしていたのです。体の私はちゃんと残っているんですね。
現代は情報が溢れすぎ思考のマインドコントロールされた自分が力を増し魂や体の声を遮っています。
せっかく届いた声すらも、情報が伝えている通りに行っているので改善されないままです。
本当の自分には程遠い場所に進んでいます。ほとんどの人がそうではないでしょうか?
体と思考を取り戻してください。
本来の動きやすい体と、意識としての心を取り戻すことで初めて魂が見えてきます。
体は毒を抜くデトックス。
思考は考えるという力です。情報で埋めるのではなく本当にそうなのか検証までできる目です。
行動に起こして初めて見えてきます。