現代は言葉の社会
同じ言葉を使っていても、それぞれに言葉への意味合いや価値観が違いコミュニケーションに苦痛を感じるほどに崩壊しつつある。
教育によって教えられてはいるものの、感情を挟み善悪を絡ませた事で純粋な言葉の意味ではなく、言葉に付随する善悪のジャッジが主になり当たり前の成り行きでもある。
言葉主体から意味主体へ変わり、現代では意味がなければ動けない。無意味なものと思っている間は動かない。
価値観という意味付けを与えられて動く・動けるようになる。
このような生き方をしているのは人間しかいない。
自然は意味合いではなく、自己の確立のために生きている。生命に宿っている根底に従って生きている。
人間は言葉の意味合いでの価値観に従って生きている。これは経済社会にしか存在しないものであり、自分の型を確率ができていない人間にとっては経済社会に触れた瞬間に現れる。
現代では自分の型を作り出せないように教育が変わってしまった。
現実を生きていると動くために価値観はいらない。
意味や価値観で動くのではなく、型で動く。
型がしっかりとしている、型にはまっていると余計なものに惑わされる事もなく自分にとって必要なものを選択していけるようになる。
人間は動物であり、自然である事を忘れているのか、全て言葉で行おうとしている。
自然は自分の中を変えている。状態によって変化させている。変化させられる力が強いものが綺麗により長く生きている。
言葉を使わない動植物は気づいてそのように生きているのに、なぜ人間だけが気づかないのだろうか?
動物も植物も頭がいい。人間は到底敵わないところまで落ちこぼれてる。
人間に聞いても分からない世界はこの世界では当たり前のことだもの。
人間は自滅するやり方が正しいと思ってるし、自然は生きる方向へと向かっている。
その方法がその世界にとっては常識になっているだけの話。
自然は肌で感じ取り学習するが、人間は常識を記憶し学習しているにしか過ぎないから当たり前なんだ。
人間が作り上げたものにどれだけ反応しないか。
自分を大切にし、リズムを大切に出来るか。
結局は間違った情報・常識に従っている自分の脳との戦いになる。
肌で感じ取ってしまうあまりに自分だと勘違いする。
この図式に疑う事はないんだ。自分から出てくるものだから。。。。
もっとシンプルに考えた方がいい
脳の使い方も複雑で、神経の使い方も複雑で・・・絡まった糸が解せない。
だから昔は言葉で教えなかったんだよ。
型を大切にし、気を重んじ、自然との同調を目指していたその世界にはね。
体で習得するしか無いもの。
あなたそのものが人生と同じって事が分かるから習得できるような生活だった。
感動を主として動いていたから。
感動から言葉主体の世界へ変わることで感情へ変わった。
この二つは表裏一体。両方存在する事は無い。
ついでにこの世界を伝えていた「道」も一緒になくなった。
正し、この世界は一人一人が宇宙を持っている。
自己に集中すれば自分の生き方は変わる。
全てが自己責任で成り立っているのが自然だから。