考えるという行為には2種類ある
1つは、記憶を頼りにその上に成り立たせようとする
記憶を頼りにするというのは、感情が伴い深い考察ができなくなる。
あくまで、今の自分を基準にして感情の基準から考える
もう一つは、情報を元に未来を考察しながら考える
今の自分という基準はないので、感情は伴わず深い考察ができる
未来・希望を基準にして考える
前者は変わらない努力をすることになり、後者は変わる努力をする
人はどうしても、今の自分を基準にして感情が伴う
「自分」というものにジャッジをしているから。
記憶の自分を信じてそれ以上の自分を信じていない
この世界の本質が分かればそれらは関係がない
瞬間に自分が変われるというのに、変われないものにしているのは自分の記憶と感情
自分自身で定着させてしまった「自己像」とそれに慣れきってしまった癖
癖というものも記憶を頼りにしたもので、瞬間を意識しながら生きると癖に惑わされなくなる。
これは「自分の中にい続ける」ということで、常に自分に意識を向けていることである。
自分の中心にいればいい
自分の中心にいることで、自分の体と向き合うことになる。
体からの反応がわかる。
中心にいないと観ている世界に惑わされ、体からの繊細なメッセージが聞き取れない。
病気になるまで気づかないのである。
現代は病気になっても「病院」があるため、病気になっても自分の体を見ようとはしない。
全てが医者任せになってしまい、考えるということはしない。
記憶と感情を使っての考え方しか知らないのである。
その記憶と感情が自分だと信じているから。
記憶と感情が満たされるものを好み、選んで行く
「エゴ」で選び「エゴ」を選んでいる。
自分と同じものしか選べないから。
そして、「エゴ」という所の意味も勘違いしている。
この世界の本質が分かれば、この区別も簡単に出来てしまう。
自分の思い通りに生きたい
誰もが思う願い
だけど、思い通りに生きるという中には
エゴを思い通りにすることと、真の思い通りのふた通りがある。
すでに、生き様に現れている。
周りを思い通りにしたいのか、自分を思い通りにしたいのか
簡単にいうとこのような感じ
自分を思い通りにするということは、自分の能力をフルに使った生き方
人間、望むものはしっかりと持って生まれてきているから。
自分を信じていないと・・・自分を信じていないから「エゴ」で埋めようとする。
周りに満たしてもらおうとする。
周りがいることで、満たされようとする。
物を持つことで、満たそうとする。