この見えている世界の役割って単純に自分の位置が分かる為にあるだけ。
自分という魂に気づいているのか?
魂はどの位置にいるのか?
魂は自分へ向かっているのか人間社会へ向かっているのか?
見えない魂を知る為に形としてここにある。
自分が何を好み、何を選択しているかに全てが現れている
面白いことに、純粋に自分と繋がりたいと思う人は少ない
多くはエゴを満たす為に自分と繋がりたいと願っている。
だから教えている事は苦痛でしかなくなる。
自分と繋がる生き方が修行で面白くないように感じてしまうのだ。
しかし、純粋に自分と繋がりたい人はこれを行っていると今までの自分から早く解放される
思考や感情に嫌気が差し、思考感情と決別出来る。
エゴの強い人は思考感情を最後まで手放さない。
そうやって自分の位置が見えてくるのにそれすらも見えなくしてしまう。
自分のクリスタルに隠されたもの。血に隠されたものをどうして探そうとせず、思考から探そうとするのだろう?
思考や感情は、魂が自分にあるのか人間社会にあるのかを知る為の道具でしかないのにね。
そして神経を動かす練習のためにあるのが物質
だから、完成されたものに価値はない。
価値に縛られているのが、人間社会。
自分の内側と外側では真逆の概念
交わう事のない、意味の通じない世界
自分の意識と神経のオンオフ
そして神経からの筋肉の使い方
これが全ての世界だもの。
それができているかどうかを知るためには物質が必要だっただけ。
だけど、いつの間にか物質が全てになってしまった。
目で見えるもの。頭から出てくるものが全てだと思い込んでしまった。
目印・信号でしかなく、注意しなくてもよかったものが絶対的権力を持ってしまった。
さっさと思考から分離すればいい。
即、自分と繋がる訓練なんて出来るようになるから。
しかもそれをしなくちゃ、益々自分が動かなくなる。
神経が疲労して変なストレス解消なんてものが必要になる。
いらないもので溢れているこの物質世界
物質が動かしているように見える
だけど動かしているのは見えないもの
自分の中の見えないものが見えると人間社会の見えないものも見えるようになる。
全ては同じだから。
思考に頼らず、まずは自分の体を頼る事。
体に全てがある。
自分の制御であり、コントロールであり、操作である。
その点では思考を動かしていない自然や子供はすごい。
歳を重ねるごとに人間は体を使わなくなっている。
いや、体を力で動かしている。
だから思考も体も疲労する。
人間の思考での評価はいらないし、しなくてもいい。
どうせ正しい評価などできないから。
自分と同じものしか受け取れない。
評価はすでに受け取っている。自分や人間がするものではないし出来ないのだ。
人間は思考だけが変わっている・・・・
人間としての人生は何も変わっていない
常にみな同じ事で喜怒哀楽している
悩みは常に同じもの
そこから抜け出しているか抜け出していないかになるのだ
人間を楽しみたいのなら、喜怒哀楽を大いに楽しめばいい
一生、人間が持ち続けている問題を楽しめばいい。人間が作り出したエゴの世界だから。
自分を楽しみたいのならその世界からは抜けるしかない。
本当の自分にはエゴはないのだから・・・・
真逆の世界が楽しめる