ある人と話をしていて、「あーこの人私と同じ視点のもの持ってる」
って感じたことがあったんです。だから話しやすいなー意図から外れないなーなんて思っていたのですが。。。。
大きな間違いだった事がある出来事から判明!それは・・・相手の一言
「私、人と話す時〇〇を心がけているんです。だから〇〇の時って私こうするでしょ?」
という一言。
心がけていただけだったのね。。。。私を見てないから、同じもの持ってるって気づかなかったのね。。。。自分だけしているって思ってたんだw
共通のもの持ってて、言わなくても意思疎通をしていると勘違いしていたのは私だけでしたw
相手は全く見ていないw
ちょっと嬉しくなってた私は・・・・反対にがっかり。。。w
やっぱり気を見てるんじゃなくて、自分の頭しか見てなかったのね〜〜〜
まだまだ見抜けてないなーと反省した出来事でしたw
もちろん、私は最初に気づいた時にも、あとで言われた時にもその事については何も発言はしておりませんw
だって、そこにエゴはないから。
私が気づいた時、共感を感じて嬉しいーーーそれ分かってるんだ!!なんて表現も
相手の一言で、あー知らなかっだーなんて表現も、私もしてたけど知らなかった?って表現もそこにはエゴがあるからですよね。
同じものを持ってるって分かった瞬間に、その視点でこの人とは話せるっていう関係性を見出しただけです。
また、分からなかったと分かった時には、その視点はこの人は理解していないんだなと関係性を改めるだけです。
関係性って言葉使いましたが、コミュニケーションの取り方って感じかな?通じてるって前提条件から、通じてないって前提条件に変わるだけなので、感情ではありません。その人の評価では無く、私の表現の仕方を変えるという事ですので、誤解の無いように。
また今回の一件で、答えだけを変えている人と根本を変えている人を見抜くって難しい。。。同じことしているから。
見抜くのは、エゴを大切にしているかしていないかって所を見るしかない。
自慢をする人、自分中心・・・全部エゴを口に出すってこと。言わなきゃわかんない世界で生きている。
言わなくても分かってるってある意味大人な世界。
昔ってそうだったものねー
事実を見ているから、分からない場所はいうけど、分かってると感じる部分には言わない。
分かっているから言わない。だから褒めるって風習は無いのよ。
逆に大人として扱ってもらえるのが結果で、人として認めてもらえているって事が誇りだった。
そして、認めてもらえると、自然と違う場所とかに連れて行ってもらえるから。
そして、気での会話が上手くなるようになってくる。
でも、気の会話・・・もう出来る人は少ないのかな?
事実を楽しんでいる人少ないのかな〜
仕事とか、趣味とか、何か目的があって集まってくる場所ではとても起こりやすいんだけどね。
気の文化が懐かしい〜〜
だから、何かに熱中しているグループって好きなのよねー本気でぶつかり合えるから。
そういえば、父も昔は気の文化で生きてたけど、歳をとると言葉の文化に変わって行った。。。
子供って、物質世界が分からないから、言葉と気の両方。分かるようになって来ると気の文化
だけど、現代のしつけをしている大人が言葉の文化だから気の文化には行きにくい。
歳を重ね言葉で凝り固まって来ると、気と言葉ごっちゃになり、いつの間にか分かりやすい言葉の文化に頼るようになる。だから老化が益々進む。
思考が作り出す気と、体が作り出す気。
体が作り出す気って思考が作り出す気と比べると繊細だから見えなくなってしまう。
特に刺激の多い現代ではとても見づらい。
体からの気を大切にしていたのが気の文化
思考からの気を大切にしているのが言葉の文化
見えないものを見るのではなく、見づらくなっているものを見やすくするだけ。
だから、もうあるもの。不思議系や違うものを探すのではない。
全部自分の中にある。
体からの気も病気という形で分かるでしょ?ストライキ起こされてようやく気づく。
体からの気を見ていないから、大きくならないと気づかない。
いや、小さなサインを出せないようにしている。
子供の頃は、すぐに熱を出して次の日にはケロッと治るという行為ができないようになった。
体を無視する事で、溜まりに溜まってからようやく出せるような体になってしまった。
体と通じていないんだ。。。。まだまだ反省。。。