自分と繋がっていない人や自然を見ていない人、要は生きていない人って考える時の基準が間違っているんですよね。
基準が違うからその答えになるのは間違ってないけど、基準については誰も疑わないんですよね。
その基準で世間は通っているし、メディアでも流れてくるからね。
この基準に対して疑いを持たない人って、情報を鵜呑みにして情報の選別をしているだけで「自分」が入っていないから「考える」力を持っていないんです。嘘かどうかが見抜けないという致命傷。
しかも間違いを指摘された時にはソースのせいにするという愚かさ。
最終的に自分の思考を省みることが出来ないから、自然・基準・自分というものは見えてこないんです。
このような人に多い特徴としては「カテゴリー分け」が出来ません。
正しくカテゴリー分けが出来ないから、途中で挫折しちゃうんですね。
これは物理的なことでも、思考的なことでも同じです。
- 乱雑になってまとまりがつかなくなる。
- 片付けが下手な人になる。
- 動線が分からなくなる。
カテゴリー分けや動線の意識がないとこのような事が起こります。
生きる価値って動線の中にあって、人生というのも一種の動線なんですよね。
また、カテゴリー分けが出来ない人って目標というものも分類として間違うんですよね。
動線としての目標とエゴとしての目標を混同しているので人生の動線がうまく引けなくなるんです。
ほとんどの人はこのカテゴリー分けというのを意識はしていません。
ですが、生きる上ではすでにいくつものカテゴリー分けをしています。
無意識にしているのでうまくいかない。まとまりがつかない。と弊害が出ているのですが、「不得意」という言葉で土台にある「カテゴリー分け」を見つけることも正すこともキッカケさえ与えられずに生きています。
カテゴリー分けだけではありません。
何を「基準」にして行っているか?
という基準の部分が常識という流行に変わっているので自然という変わらないもの・自分という変わらないものを見失っているので基準自体が見つけられないでいます。
自分・自然と合わせた生き方。
自分と繋がって生きる・自然とのリズムで生きる
という部分がないだけでこれだけ考え方に差が出ています。
頭がいいとか悪いとかではありません。
できる出来ないの問題でもありません。
基準としているものを見ているか・見失っているかの違いです。
それによって、頭がいいとか悪いとか、出来る・出来ないが発生しているだけです。
順番は逆です。
出来る生き方・見え方・使い方をしているのは自分と繋がった生き方という意識と神経と思考の土台と自然の基準です。
この世界をよく見てみてくださいね。