欲しいと思うのは自分にとって便利・利用・エゴが直結した時なんです。
それが購入意欲・学習意欲・習得意欲になって行動へと移ります。
現在の自分にとって、それが得られた時に自分・環境の変化が望みを与えてくれると思えた時に「欲しい」と思います。
どう変わるかが分からないと「欲しいという欲求」は出てこない。
例えば、、、「PC便利だよ。今どきPCぐらい出来ないとね」と言われて購入したけど何が便利なのか分からない。
時代に遅れないようにという意味で「購入」までの行動は出来たのですが、それ以降人生にとっての意味・意欲が出てこないのは生活とリンク出来ないから、何が便利で何に利用出来るかが全く理解出来ないんですね。
人生と直結できると学習・習得意欲が出てくるのですが、人生・生活とリンク出来ないのは「想像」という部分が抜けているからなんです。
想像力がついていると、誰に説得されなくてもPCを購入し、勝手に活用します。
現代はネット社会でなくてはならないものに変わりました。
PC・ネットは一般的に2000年に普及し、スマホが普及した事によってネットは誰でも行えるようになりました。
2000年以前からPC・ネットを行っている人と、2000年辺りから行っている人と、スマホから行っている人。
この3グループに分けられ、重要度を得た時点です。
始めた時期によっても得ている情報はかなり格差があります。
PC・ネットの核の部分がどれぐらい知っているかによっても活用・利用の仕方は変わっています。
何でもそうですが、人は自分・人生の重要度によって「欲しい」ものは変わり、意欲も変わります。
その欲しいものは一人一人の選択です。
この選択は人生の豊かさに直結するものもあれば、自分の豊かさに直結するものもあります。
しかし何に直結しているのかを知るらなければ、選択自体があっているのかあっていないのかの判断さえ出来ません。
自分と繋がった生き方をしていると、「選択」というのは何を選んでも一緒なんだ。
と思うのですが、それは「選択」の意味を理解しているからでもあります。
外せない選択と、外していい選択があるんです。
透視をしていた時に感じたのは人生の迷いの選択に対してはほとんどが「どれを選んでも変わらない」選択だったということです。
そして外して行けない選択に対しては選ぼうとしていないし、かすりもしていないんです。
それが上の例でも分かるように、PC・ネット社会へ移行している今という時代にどこでシフト出来たか、また出来ていないかによって分かります。
自分を生きているのか、生きていないのか。によってこの選択は段階的に変わっています。
またネット社会になって、アナログへと変えなければならないものも増えています。
これも分かっている人と、いない人がいます。
使われるもの・使うものの立ち位置によって利用目的が変わります。
自分という存在も同じです。
自分を使われるもの・使うものどちらとして自分を生きていますか?
自分に対しても一方方向というか一つの見え方しか存在しないのではありません。
これが自分と繋がった生き方と、繋がっていない生き方との二通りです。
自分という見え方が変わり生き方が変わります。
PC・ネットを使う生き方・使われる生き方・使い方が分からない生き方
全て原理は同じです。
自分を使うという繋がった生き方は全てのものに対しても見え方が真逆へと変わります。
全ては自分の扱い方と同じ見方の応用です。
単純な世界を難しくしないでくださいね。
見極める力は、自分の本来の冷静な状態を知り自分を知る事からです。
現代は、「冷静」も分からなくなっているので直感も働かず、直感・経験値・癖を混同し判断を見誤っています。
自分というものを理解していないと、何をするにも大変ですよね。
自分・人間という生物の誤訳は生きる上で大変になりますよ。
常に自分から出てくるもので、それ以外考えられないものだからそれ以外になることは出来ないんですよね。。
全ては自己責任の世界で、自分で自分の首をシメているか、自分で開放しているかのどちらかです。
自分をどう扱っているかで変わります。