上手くいっている人でも思考で生きている人と感で生きている人がいるんですよね。
ここでいう「感」とは神経の使い方で自然と「感」の掴み方が身についている人です。
「メッセージ」と言われていたり、「繋がった時に出てくるもの」と言われていたり「運」と言われているものですが、感覚という五感・六感で普通に誰でも持っているものですね。
思考は経験値だったり成功事例を持つことによって上手くいったりしますが、神経の使い方が思考に偏りすぎて過大な負担をかけていることで、現実的には変化についていけなくなったり変化が読めなかったりする執着と、病気などの体に出る場合などとして表面化されています。
「思考で生きている人とと感で生きている人」と普通に聞いたら感で生きている人の方が何もしなくてもいいような気がしますよね。
運だけで生きているような・・・
適当でいいような・・・
ですが、五感・六感って神経の使い方なんです。小さい頃に自然と身についた体の使い方で変わるものなんですね。
神経が開いて五感六感に気付きやすく使いやすい意識になるんです。
大人になるとこの神経を開いてもついてしまった思考癖・体の癖・神経の癖で瞬間に閉じてしまうんですよね。
だから思考に引っ張られやすいという現象が怒ってきます。引っ張られやすいのではなく思考と繋がる神経を使ってるからなんですね。
そういえば、この「癖」って、〇〇のクセに!って悪口なんかで言われたりしますが、ホント「癖」なんですよね。
やっぱり日本語面白いですね。
とはいえ、両方とも必要なのは自分のしている事です。
両者ともしっかりと努力をしています。
ただその努力というものが的を得ているのか、的を得るまでに時間がかかるのか・・・
その差なんですね。
運やチャンスが来ても活かせなければ何者にもなりません。
これも「自分」が返ってきているだけですね。
正しい努力が出来ているのか?という事ですよね。
五感・六感という感で生きていると感覚とズレていないので正しい努力を行なっているんですよね。
思考と繋がっていると感覚・体・自然・現実とのズレで大概意味のない努力となっていることが多いですね。
私もふとメッセージ・単語が出てくる時は神経の使い方が正しい時です。
たまに昔の使い方が出る時もあるので癖を直している最中ですけどね。
そして出てきたものを行動に移すかどうかも一つの難関なんですよ。
私自身、以前はなかなか動かなかったので随分とメッセージを流してきましたが、現在では型を習得したおかげで「邪魔くさい」が減り動けるようにもなりました。
神経と型に助けられてます。
50歳も過ぎると寝るだけで体が固まるんですよね。
神経・エネルギーが動かずに朝から気を正すことから始めています。
そう思うと若いっていいですね。活発に神経も細胞も動いていてエネルギーが活発な状態を無条件で手に入れてる。
でも反対に若いってだけで何もせずにできてしまっているのでこの大切なことに気づけずに感情・思考に傾いちゃうんですよね。
表と裏を体験しちゃうと若い頃に知っていれば。。。と思うんですけどね。
多分余計なこと、お節介になっちゃうんだろうけどね。
でも、生徒さんは全ての人がもっと早く知っておきたかった!若い頃に知っていれば!
と皆さん仰るので真逆のこの生き方でこの世界・エネルギーが見え始めるので楽しいんですよね。
感で生き始めるって、自分が感の元の神経に気を使い始めるから無視してたものを見るようになるんですね。
何が感で何が気分で何が思考で・・・その区別って言葉と説明している人の雰囲気で勝手に思い込んじゃっているんですよね。
私の文章でも生徒・卒業生さんには正しく伝えているので間違わずに読んでもらえる言葉が結構あります。
結構「本当の意味は」と記事的に書いてはいるのですが、読まれていないと間違った意味として捉えて読んじゃうんですよね。
同じ言葉を使わざるおえないから仕方ないのですが・・・二極化の致し方ない所でもありますね。
五感・六感・・・感覚で説明しにくいのですが、自分の感覚というもの、神経・エネルギーがわかると不思議ではなく科学になります。
エネルギーが分かった上でアクアリウムを行うとロジックが分かったりしますよ。
結局、思考と感で生きている人の違いって、正しくこの世界を見られるから正しい努力が出来てゆとりを持て、本来の自分の行きたい方向へ自分で向かえるかどうかなんですよね。
人生・自分からのメッセージが正しく読み取れるかどうかって違いかな?
思考は人間社会での情報を元にしか動けないし自分を決められないものね。
ホントメディア通りに動いているんだから凄い!嘘が見破れないんだものね。
導き手は自分の神経と人生。それを解釈できる情報と思考。
無茶苦茶簡単な世界ですよ。