自然である動植物はこの世に出てから気の使い方を自然と学ぶ
DNAにでも組み込まれているのだろうか
自分が動く事によって周りの気がどのように動くのかを知り、自分はどのような気になれば良いのかを生きることで学習していく。
私がアクアを始めて得たものの1つに気の使い方がある。
人間社会を生きていると気づかない、勘違いしてしまっている気の使い方は自然が正しい気を教えてくれる。
もちろんこれは自分の中の気が分かっていないと自然の気は分からない。
全てが今あなたの記憶にある憶測の気で行ってしまう事になる。
私自身、アクアは難しい失敗ばかりしてしまう。
となってしまったのも理解したつもりでいただけで体にまで染み込ませていない。
要は知った気になっていただけだったから。
知っている(情報)と出来る(理解・分かる)とは雲泥の差がある。
知っていても出来なければ何も知らないのと同じでもある。理解もしていなければ分かってもいない。
人間は動物であり自然であるのにもかかわらず、自然や気を全く理解していない。
だから、人間というものも理解できていないし人間社会も理解はできない。
この世界は常に気を見せながら生きているし、気と同じようになっているのに見えていない。
現代は人間は動物のように気を理解する時期、言葉を理解していく。
それによって気の世界から人間で作り上げた人間にしか通用のしない世界を生きていく事になる。
国によって常識や生き方が違うのと同じように・・・・
周りを気にし、周りと比べ、自分の気を下げたり上げたり・・・
それによって自分の気は傲慢になったり卑屈になったりエゴが顔に出る。
自分という自然はなくなり、妄想で作られたぎこちない自分を無意識にさも本当の自分かのように演じている。
周りにお手本など存在しない。失敗談があるだけだ。
育てるということが苦痛になっている時代だからね。
自然が安心している気になる。
脳でするのではなく、体で行う。
体と繋がる事で可能になる。
型を重んじ型を崩さない。型を崩さなければ永遠に続く・・
その型を崩すのが、自分の思い込みと感情という皮肉さ。
自分に呆れるしかないのが人生だ。
自分のしていることしか返ってきていないのだから・・・・
難なくこなせるものが理解しているもので知っているもの。
できないものは理解も知りもしていないもの。
出来るようになるまで、難なくこなせるようになるまで続けたのか続けなかったのか
ただそれだけなんだ。
自分の体を使えるのか使えないのか
という事と同じになる。
出来る・出来ないなんて特殊なものでない限り理解しコツを掴めれば出来るようになるものが殆ど。
諦めるのは、「面倒臭い」「難しい」という理由がほとんど。
感情優先になっているか、自分の体の使い方を習得してないかだけ。
だから何をしても出来ないようになってる。
感情優位と体の使い方の取得をせず、自分から逃げているから。その結果がメンヘラに向かう。
自分で何も出来ない事を自覚しているから、褒めて欲しいし、かまって欲しくなる、人恋しくなる、寂しくなる・・・。
自分では判断が出来ないから、周りに判断してもらいたいし、出来ていると判断されたいのだ。
大人社会なんて出来て当たり前になってる。出来ないことへ出来るようにする助言・修正はあっても出来た時に褒めるなんてのはないんだよ。それは子供の気を上げるためにやってた手段であって、社会なんて出来てスタートライン・使い物になるって世界だし、ようやく対等に見てもらえるのよね。
気の使い方や体の使い方を全く理解していないことが目に見えて分かるんだよね。
自分のしてきた事の結果。自分から逃げた結果
ホント馬鹿馬鹿しいぐらいに単純な世の中なんだよね。
この自然界で一番バカで傲慢なのは人間だったって事。
自然は自分たちで自分を崩さないものね。