思い出を振り返るとあの時は良かった・悪かった など様々な時代がありますよね。  
今冷静に振り返ると、それらの思い出はエゴが満たされているか満たされていないかそれだけのように感じます。

良い思い出と悪い思い出を振り返ってみてください。  
エゴが満たされているのか満たされていないのか 自分の思い通りになっている時となっていない時  
思い切り思考の世界に入っていてその時の体の状態やエネルギーはお構いなし
と言うよりむしろ酷使していませんでしたか?  

私は良い思い出の時に体を壊しています。
でも楽しかったから体からの警告を無視していたんです。
思考がエネルギーを支配していたのでそれ以上の力を出していました。  
ですが、突然倒れるんですよね。
倒れるまで気づかないし、倒れても気づかない。
すぐに良くなると思うし、2時間も寝てれば治ると思う。
倒れてまでもまだ行けると思うんです。  

倒れる直前でも目の前が真っ暗になっていることさえ気づけずに頭で歩くんです。
もうそろそろ左に曲がる頃、次に右だったはず〜とか そのまま気を失い、気づいた時に担がれているけどそれでもまだ歩いてる。
普通は目の前が暗くなることはわかるらしいのですが、私は気づかないんです。  
それぐらい私は思考優位です。
エゴを満たそうと、思考の思うままに動いてしまう。  

いい記憶と悪い記憶に共通していることは

魂と体に一番遠い場所 

ということです。  

特にいい思い出の時というのは、頑張れるし無理がしやすいです。
エゴを満たすためにしているのですからね。

エネルギー倍増ですよ。  

でも年齢が進むにつれそれらの代償は大きく映ってきます。
ですが、その時にも良い思い出が顔を出すんですね。
自己満足させてしまうんです。

一番大切なものを犠牲にしているにもかかわらず納得させる材料として思考は使ってしまうのです。

いつまでたっても思考から出ることができません。
思考の中の住人であり、魂にも体にも気づけません。  
エネルギーを確立するためには体の存在・状態がとっても重要になります。
体を整えておかないとクリアーなエネルギーは作れません。

作れていると思ってしまうのは思考しか見ていない証拠か、 今までで良い状態のものを作ることができるけど、それ以上を見ようとしない。 記憶しか見ていない証です。  

体が綺麗にならなければ、どんなエネルギーを作ろうと濁っています。
体がクリアーであれば多少のエネルギー変化はすぐに元に戻れます。
前回お話しした聡明なエネルギーは体とエネルギーで行うものです。  

この聡明なエネルギーになっていないと本当の私が何を感じ何を見ているのかを 自分が意識することはできません。
濁ったエネルギーのフィルターを通して濁ったエネルギーを見てしまうからです。
そして、その濁ったエネルギーが自分だと思ってしまっているのがこの世の中です。  

思い出とはそもそもその濁ったエネルギーフィルターを通して見ています。
感情は荒いエネルギーなので肉体の繊細なエネルギーをキャッチできません。  
聡明なエネルギーになった時、いい思い出も悪い思い出も出てきません。

全てにおいて平等になります。  
記憶・思考・自分の思いを満足させることは自己からどんどん離れていきます。

自分につながるのに自分以外のものを使うと知識だけのエゴの満足で終わりますのでお気をつけください。