少し面白い事を発見してしまった。
口と意識

意識を手放しているほど口って緩んでいるんですよね。
口周りの筋肉・神経のスイッチが意識と結びついてるって事なんですよね。

意識の度合いで筋肉・神経が変わって、口が開くような状態では意識は空想域と結びついているんですよ。
そして、この口周りの筋肉・神経のスイッチによって空想域を優先するか、現実を優先するかが変わる。

赤ちゃんって現実の情報が少ない分、口周りが緩んでいるけど、リアル情報が多くなるにつれてこの筋肉が発達するんですよね。
前回の記事と絡めると理科の部分が発達するんですよね。言葉や人の理解ではなく物質の理解が増えるって事。

人間情報による作られたもの(エゴ・妄想)が多くなるとこの口元が緩んでくる。口の筋肉が緩んで日常生活していると、好みもエゴ妄想領域で作られるので子供っぽい所謂「餓鬼」となって意識を現実に置くことが出来なくなるんですよね。

これは老化が進んでいくと起こる事でもある。エゴ・妄想の度合いにもよるが
意識をこの世界に置いておけなくなると口元が緩んでいき人によっては子供のような餓鬼にもなる。

なので、気を熟知していた昔・・・日本人の歴史として作法として口を閉じる事を重じていたんですよね。
意識を現実に置いて現実を正しくみられるように、妄想によって現実をねじ曲げないように。

ほとんどの国では食事でも口を閉じるが、国によっては口を開けて食べるのが良いとされるところもある(最近では若い方は違うようですが)
傾向としてみられるものを確認してみるのもいいかもしれない。

空想・妄想を優先するか、現実を優先するか。
優先順位が口のスイッチによって変わっているんですよね。

また、口以外でも体全てそれぞれがスイッチなので総合的なものによって自分というものは変わってきますが、作法というのは体のスイッチの入れ方を作法として形にしたものです。
正し、現代の作法はエゴによって変わっていますけどね。解釈・エゴ・流派によって分裂させたといった方がいいのかな?
スイッチのオンオフだったものが、見た目だったり大人の事情だったり勘違いの解釈と型が見えなくなったものですからね。

私としては、そのおかげで本来の型やチャクラが見つけられたのでよかったのです。
多分正しいものがずっと残っていて教えられていただけ、伝えられているだけだったら気づかなかったのかもしれません。
いや、続いていたら現代の国語ではなく本来の国語で、理科と結びついていていたら全ての人が分かっていたのかもね。
時代はもっと平和でエゴも少なく進化していたかもしれない。

人前でみっともないから作法を守るとか、人前じゃなく誰もみていないからだらける・守らないとかではないんだよね。
自分のスイッチで人生のスイッチでもあるから認識が全く違う。
体のスイッチって手放せないし、最重要になるもの。現代では最も重要視されずだらけるように誘導されてるし、意識が記憶と分離できない限りスイッチと分かってもなかなか直せないのも現代の闇でもある。

口は意識を守るため、自分を守るために神経を使っている。

我慢って無意識にギューっと口を閉じる。自分を守り意識を守るために。
無意識に歯を食いしばってしまう時も同じ感じかな?

ただ、自分と繋がってみるとわかるけど、人間社会を信じているからその場面で無意識に口に力を入れてしまう。
現実リアルでは算数としては真逆な考えなのでちょっと違う。そこ重要視してない。守る場所違うからね。
これは知識の問題かな?
算数が反対って知識でもある。
広い世界・知識を持っているか、狭い世界・知識でいるかかな?
算数が反対って知識・視野が広がる事でもあるからね。
要は頭のいい人ってその思考回路になってるから。

という事で、少し話はずれてしまったけど、口と意識の関係少し分かってもらえたでしょうか?
意識をどうこうってしたって無駄なんですよね。そもそもスイッチの問題なんですからね。

原因と結果って見えていない部分と見えてる部分なんですよね。
全く違う場所を操らないといけない。
自分と繋がるってこれが自分でわかるというか探せる。繋がっているからね。
そして、常にそのようにして動いているから。

型や意識の分離は分からなくても、日本人として大切にされてきた作法はしっかりと守った方がいいですよ。
それは礼儀作法というものではなく、衣食住による普通の作法で当たり前のもので苦痛ではないものだから。
意識が自分・人間・体と離れている人ほど苦痛に感じるもの。空想の世界に寄りすぎているからね。

意識せずに無意識で行っている人が大半だけど、少し意識して自分と近づいてみてくださいね。

黙っていることができないというのも意識が離れて妄想思考と繋がっているんですよね。
現代って無音に耐えられないぐらいに妄想思考へ向かってますからね。