人の中で生きているとついつい「人」に焦点が当たってしまい「好かれたい」という下心を持ってしまう。
なぜ下心という表現なのか?というと、自分で勝負しないで「好かれる為にする行為」が発生するからなんですね。
この好かれる為にする行為は、好かれてしまったらしなくなるかもしれない。むしろ自分の自然体ではないから自分へストレスを与えているんですよね。
また、「好かれる」という事は「嫌われる」という危険と隣り合わせになり、常にそのプレッシャーに晒されているんです。(自分では気づいていない人も多いですけどね)
好かれなければ嫌われることもないんですけどね。
また自然体で好かれているのであれば、嫌われるというプレッシャーも生まれないんですよね。好かれるというプレッシャーもないしね。
まあどちらにしろ、自分を生きることに一生懸命ではなく、人に対して一生懸命に生きているので、人の人生を歩んでいるんですよね。
水槽で例えると、自分の水槽はドロドロになってるのに見ないで人の水槽を一生懸命に綺麗にしてあげてるんですよ。
そして、ふと自分の水槽を見たときに自分に一生懸命になってたら、相手から恨まれるんですよね。なんで私の水槽やってくれないの?みたいな感じになるのかな?
今までしてくれてたのになんで?みたいなね。
自分の水槽をお世話してたら、「綺麗な水槽ですね。」と好意を持たれるときの会話とは違いますよね?
綺麗な水槽と一言で言われてしまいますが、バランスの取れてる水槽でもお金をかけて見栄えだけがいい水槽でも綺麗と言われますが・・・・
見方によっては様々な解釈が生まれるんですけど、細かい事は省略します。ここでの意味合い的にはバランスととっていて欲しい所ですが・・・あなたはどうでしたか?
自己の中身というか土台なんですけどね。
前回のストレスの話にも通じますが、人間ずっと一緒にいるって見栄えとかではいられないんですよね。
コツコツと溜まっていく小さなストレスって実は五感に関わるものなんです。
しかもこれは生命維持に関わっているので、すごく些細な事なのですが、絶対に我慢ができないものでもあります。
感情優先で人間社会にどっぷりとハマってしまっていると、脳内でそれぐらいと押さえ込み我慢はできるのですが、五感に関わっているのでコツコツと得体の知れないものが溜まっていってどうしようもなくなるんです。
だけど、五感での事だから些細な事としてまた押さえ込んじゃうんですよね。
その理由が見栄えだったり、お金だったり、人間性だったり、感性だったりするんですよね。(人によって多種多様がありますので得たいものとの引き換えに我慢しているものと考えてください)
引き換えにしたものが年数が立つにつれ大きくなり、しかも自分では理解できないから脳内では混乱をきたしてしまうのがストレスです。
脳で得たいとはっきりと思っているものと、五感で体が感じ取っている自分では大きな問題ではなかった小さな問題とのギャップで様々なことが起こります。
今はコロナの影響で生活が変わるとちゃんとバランスが取れていれば問題って発生はしませんが、バランスが取れていなかった場合、隠れていた問題が浮き彫りになってきます。
実際バランスが取れていなかったのに、取れてるように見えてた。なんて事が多く出ているかも知れませんね。
話がちょっと外れてしまいましたが、好かれようとした結果が起こしている事が多くあります。
好かれる為にいい人でいることもあります。
カッコよくすることもあります。
逆にカッコ悪くすることもあります。
気を引く為にすることもあれば、観察力や包容力がある人を見つける為にだらしなくする人もいます。
どれもこれも自分を犠牲にはしているんですけどね。
自分を犠牲にしてまで手に入れたいもの・・・・
ただし、自分に気づいたときには本当に手遅れになってるんですよね。。。
これが自爆してるってことなんですよ。
自分の水槽のバランスを崩さない。
そのバランスってなんなのか?
水槽の中身全部のことで、その全てが分かるにはやってみることです。
そして自分で気がつくという力を持つことです。
一生誰かに自分の事を聞いて回りますか?一人では何もできない・分からない自分でいたいですか?
自分で自分が分かるから自信なんですよね。