人間の感覚って二通りある。
自然の感覚、そして認識によって勝手に作り上げる感覚
自然の感覚とは人種・年齢・記憶・歴史に関係なく共通した感覚のこと。
例えば、黒板のギーという音や金属のキーと擦れる音は人種・年齢・記憶に関係なくほとんどの人が嫌がる音
しかし、食事のクチャクチャ音やゲップ音などは国柄によって変わる。
日本人ではマナー違反に当たる常識で、その音を聞くと食事が不味くなる
しかし、同じクチャクチャ音やゲップ音などが国によっては美味しい音であり食欲を誘う音として認識されている。
DNAなのか、それとも教育・認識・神経の違いなのか・・・
また嗅覚に至っては、年齢によってダメな匂いと良い匂いがあったりする。
また神経の異常によっても好む香りが変わって来たりもする。
そして、様々な感覚を意識していないと察知する力は衰えていくし、意識していると鍛えられていく。
全ては神経を研ぎ澄ませ神経の異常に自分が気付き早めに直せるかになってくる。
神経の柔軟性である。
自分の感覚が自然なのか?それとも認識によっての感覚なのか?
あなた自身がしていることはどちらだろう?
昔は排泄物を窓から廃棄していた国もある。今となっては考えられないことだけど、生まれた時からそれが日常であれば疑うことはない。
それは現代でもありうること。日常になっているが故に気づかずに認識としての感覚を信じて行っている。
ただ、、、そのせいで直したい自分が直せずにいたらどうだろう?
認識の感覚だったから自信を持てなかったとしたらどうだろう?
認識の感覚で生きていたから人目ばかり気にするようになっていたとしたら?
認識がなければ感覚は出来上がってない。認識感覚を作るために人に聞いたり答えを求めたりしている。
常に認識感覚を求めて現代は生きている。
自然感覚を持とうとはしないのだ。
自然感覚を取り戻せば本来は答えなど全て自分の中にある事がわかる。
自然の中にその答えはある。
自然の中に答えを導く方程式があることに気づく。
みんな魚を欲しがっている。魚を釣る方法を学んだ方が早いのに・・・
常に魚を買い続けている。
そして、魚を釣る方法を知っている人はいろんな魚の釣り方を覚えて出来る事が多くなっていく。
魚だけでは終わらずに他のものにも挑戦し始める。
常に人生では何を学べばいいのかを知っているから・・・
そのうちに、習わなくても見ていれば全てがそこに答えがある事が分かってくる。
全ては自然だから・・・同じ法則の中で動いているから・・・・