私の個人的な節目の日
毎年ある時間にある場所に行くのが恒例の行事
今年はちゃんとたどり着けた。毎年何故かその時間にはたどり着けず、手前のある場所で迎えその時間が過ぎてから目的地を目指すような感じだったけど、今年は逆パターン。
道中からいろんな言葉ポンポン出てくる。
個人的な事なので詳しくは書けませんが、これから第2ラウンドの始まり!といった感じでしょうか。
その為にこれから改めて勉強!と言っても何かを勉強する訳ではなく、しばらくは完全に「無・ゼロ」の中にいる事。
生きる事、目の前の目的のみに集中し、思考を押し殺す。
ある意味、周りの事は一切考えない。と言う感じかな?
自分の事に集中する感じです。
新しい事が入ってくる為に、一切の自分の判断を断つ
自宅に帰ってきて入ってくる情報は・・・んーとても難しそうな問題に取りかからなくてはいけないみたい^^;
もう1段階広い視点を持たないと見えて来ない世界みたいですが、マクロ過ぎるのです。。。
とりあえずパーツ集め中は思考を動かさず見ているだけ。
現在はもう私の関与はしなくていいらしく、今日で完全に終わり!思考は全くもって動いてはくれません・・・ブログ書くのも大変です^^; (支離滅裂だったらごめんなさい)
それにしても、ここ最近思い出した事があって、全ては決まっているよね〜と。。。
自分では気づいていない。だけど向かう先はすでに決まっていて、ちらほらと環境に散りばめられている。
それを掴めるかどうか?って感じなのかな?
周りに左右されているとトンデモナイ方向に自ら進んでしまうけど、しっかりとリアルを生きていれば向かうように向かっている。
向かう先は決まっているけど、決まっているものは普通の人は大して問題視していないものだから、そっちに行こうとはせずに人間社会を生きる事に一生懸命になっている人が多い。見つけてても重要に思ってないかもしれない。
最終的に選ぶのは誰でもなく今の自分だから。
大きなものが動いているけど、無視出来るのも今の自分だし、向かうのも今の自分。
無視する方が辛いけど、肉体的にはする事が多くなるから、今の思考原理では無視し続けてしまう。
私自身の歴史、祖先の歴史に深く根付いているようで、その一筋を繋げて行っているんだろうな〜と。
祖母は寺の出で、私は何もないが小さい頃からキリスト教と関わり、そして娘にも繋がっているのだろうか?娘は舞姫として勤めている。
何故か3宗教が揃ってしまっている・・・・見事女性に繋がっていて、祖母の上の祖先もどうなっているのか調べてみたいものだわ。
しかも、裏を知る事で本来の「真」の部分を見つけ出すような背景も見える。
ここで行っているように、「教え」を大切にして思考能力を奪うのではなく、原理原則から人生をどう生きていくかと言う事。
教えは1つの道しか与えられないが原理原則は無数に方法は存在する。
原理が分からなければ、1つの方法から真似ることしかできない。しかも原理原則が分かるまで行い続け、いずれ原理原則が分かるようになるかと言えば、そんな保証はない。
真似する事で安心して原理原則を知ろうとせず、しかもあっているのか間違っているのかさえも分からないまま過ごしている。
それらも全て、周りの評価ばかりを気にした生き方だから。自分と人生の対話では無くなっている。
人間と人間の対話であり、評価されれば十分で、人に認めて貰うためだけに生きている。
しかも現代では褒めあって生きている風潮があるため、その評価も如何わしい。
すでに本能から外れ、その場限りの都合のいい言葉を引き出そうと必死で、どう見られたいかによって、言葉巧みに周りを納得させている。
それを表したかのような諺を見つけた
巧言令色鮮し仁【こうげんれいしょくすくなしじん】
【意味】言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である仁の心が欠けているものだということ。
ちなみに対義語は
剛毅木訥仁に近し【ごうきぼくとつじんにちかし】
【意味】意思が強く強固で、素朴で口数が少ない人物が、道徳の理想である仁に最も近い者であるということ
さて、節目とは関係のない文章になってしまいましたが、これからまた心羽も変わっていきそうです。
しっかりと自分の人生にコミットいたします!
所詮人は自分の人生しか動かせませんからね。そして自分を動かすのが最も早いし道を外さない。
そして、表面だけのスキルは何の価値もないし真逆に進ませる。(エゴの拡張)
まずはリセット!ゼロから始めよう。